BASEで冊子を販売中です
「編む手/解く手 2024記録集」¥1,000
毛糸を編んだりほどいたりして、だれかの手について想像するアートプロジェクト。
関東の2会場で開催したときの様子を写真とテキストでまとめました。
広報資料のアーカイブ、会場となった場所にまつわる背景、そして参加された方々の振る舞いや言葉を記録しています。
・B5サイズ
・全49ページ
・フルカラー

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「編む手/解く手 2024記録集」¥1,000
毛糸を編んだりほどいたりして、だれかの手について想像するアートプロジェクト。
関東の2会場で開催したときの様子を写真とテキストでまとめました。
広報資料のアーカイブ、会場となった場所にまつわる背景、そして参加された方々の振る舞いや言葉を記録しています。
・B5サイズ
・全49ページ
・フルカラー

祖母の姉が亡くなったらしい。
片手で数えられる程しか会ったことがないが、親戚として私のことを無条件に可愛がってくれる存在がいなくなるのは、やはり寂しい。
幼稚園のときと、小学校低学年のときに、祖母の姉(大叔母)が住む大阪まで遊びに行った。
幼稚園のときは、たしか父と祖母と行ったような記憶で(叔父も一緒だったかもしれない)、人生で初めて飛行機に乗ったのがこの旅だったと思う。少し年上のはとこと卓球をした気がする。お寿司屋さんもたぶんまだやっていて、お客さんが入っていた気がする。カウンター越しに、(たぶん)大将が話しかけてくれていた記憶がある。ショッピングモールか何かに入っているおもちゃ屋さんに行って、スロープ状のエスカレーターを初めて見て興奮したのを覚えている。プリキュアの変身するやつを買ってもらって、なぜかスイミングの友達の分のプリキュアもお土産で買ってもらった。病院に行ったら、なんか親戚が集まっていて、点滴を付けたおじいちゃんが登場したけど、誰?と思った。
小学生のときは、祖母と2人で大阪に行った。タクシーを降りたところで、大叔母が自転車に乗って登場し、おばあちゃんでも自転車に乗れるもんなんだなと驚いた。
私たちが泊まる2階の部屋に、はとこが赤ちゃんの頃の写真がたくさん飾ってあって、この頃はアトピーがひどかったけど、今はすごく綺麗に治ったでしょうという話をしていた。亀の子たわしが効いたらしい。黒い電話が鳴って大叔母が出るなり「もう店やってないんですよぉ」と断っていた。なぜかトイレのことが印象に残っている。具体的にトイレの何が印象的だったのかは覚えていない。水色のタイルだったかな。あ、思い出した。ドアを開けたまま鍵だけ回して、そのままドアを閉めたらどうなるのか実験したんだった。当然開けられなくなり、大人を困らせた。あと、祖母から便秘を心配されていた。もう畳んでしまった寿司屋の座敷で、私と祖母と大叔母の3人で夕飯を食べた。お店なのに食卓でもあるという、がらんとした感じが不思議だった。このころの私は、お箸を持ってないほうの手を床に付けて姿勢を崩す癖がついており、祖母から普段より強めに注意された。お風呂が昔の家にある正方形タイプで、身長120cmの私には深くて狭くて新鮮だった。
父のいとこ(大叔母の次男)に連れられて、前回のおもちゃ屋さんへ行った。犬を育てるリストバンド型のゲームを買ってもらった。妹へのお土産にはリカちゃん、友達へのお土産は、その子の家の車と同じトミカを買ってもらった(当然その子はすでに持っていた)。その後、はとこが住んでいるマンションに遊びに行った。卓球で遊んでくれた無邪気なはとこはもうおらず、小学校高学年になってシャイさが増したのか、全然遊ばなかった。犬育成ゲームの初期設定を父のいとこがやってくれた。私の名前がひかりなので、犬の名前をあかりにしようとしたらしいが、あかゆになってしまい、私は一生あかゆという犬を育てた。はとこのお下がりで、ポケモンのイラストが描けるおもちゃをもらって帰った。
あと、祖母と大叔母と買い物に行ったときに、コムサで洋服を買ってもらった気がする。祖母によると、大叔母はフリフリ可愛い系の服が好みだったらしい。たしかに、フリフリ系の服も提案された気がするが、おそらく祖母に却下され、コムサのシンプルなワンピースか何かに落ち着いた。
掘りごたつの部屋でお昼ご飯を食べた日があった。大きいテレビのある個室だったと思うけど、店だったのか、誰かの家だったのかはわからない。ずっと野球の試合が大画面で流れていて、みんなして野球の何がおもしろいんだろうか、と疑問に思った。父のいとこは、みんなからお酒を勧められていたが、お酒を飲むのは怖いという理由で何回も断っていた。なんか意外だったからなのか、ガチで深刻な感じで断っていたからなのか、妙に記憶に残っている。
小学生のとき、大叔母が祖母に会いにうちに来てくれたこともあった。どこかに出かけたりした記憶はないが、なぜか布団を敷いている光景だけぼんやりと思い出せる。祖母の部屋の戸を開けたら、祖母と大叔母が昼寝から起きたところだったような。
はとこは19歳のとき白血病で亡くなった。
たぶんその年にオルガンのコンクールが大阪であったので、家族全員で遊びに行った。それが大叔母に会った最後だと思う。見たことないくらいネタがでかい寿司でもてなしてくれた。会わない間に父のいとこは結婚していて、奥さんにも会った。(その前に、弟が生まれる直前の夏にも会っているような気がするけど思い出せない)
コロナ禍、大叔母と同居していた父のいとこ夫婦は、何かのいざこざの積み重ねで出ていってしまい、大叔母は認知症になったので施設に入ることになった。うちでビデオ通話を繋いだらしいが、妹である祖母のことは分からなくなっていて、祖母はショックを受けていた。祖母も気軽に遠出ができるほどの体力もないので、結局大阪には行かなかった。
お葬式には、祖母と父が参列する。
エドワード・ショーター『近代家族の形成』第5章で、母子関係と母乳育児についての記述があり、読書会で最近の”卒乳”についての流行?の話題になった。
「ユニセフが卒乳年齢の世界平均は4.2歳であると報告している」とする日本語のネット記事が大量に出てくる割に、ユニセフ公式の情報に辿り着かない。どういう理屈で4.2歳という数字になっているのかはすっ飛ばして、「ユニセフによるとこういうことなので、卒乳はゆっくりで大丈夫!」という結論。日本とそれ以外の国では事情が違う上での「4.2歳」だろうに、本当にそれでいいのか。4.2歳というのもデマの可能性がある。
私は、オムツを替えられていた時の記憶がある。2~3歳の頃、トイレの空間や水を流す音が怖かったので、オムツも使っていた。友達の家で大人数で遊んでいた時、リビングで母親にオムツを替えられているところに、「え〜まだオムツ履いてるの〜?赤ちゃんじゃん!」とみんなに野次られていた時の記憶が鮮明にある。もちろん今は別に何とも思ってないけれど、プライバシー的にあまり良いことではない気がする。4歳を過ぎて母乳を飲むことはいいとして、言葉で世界を認識できるようになった子どもが、配慮や理解のない状況に置かれる可能性があるのは問題だと思う。
「母乳で育てられていない赤ちゃん760万人」というユニセフの記事があった。途上国などで母乳で育てられずに亡くなってしまう赤ちゃんが多くて問題なのかなと思ったら、単に先進国でミルクを飲んでいる赤ちゃんが多いというだけだった。とても強い信仰心を感じる記事だ。「貧しい国の裕福な母親は母乳育児をしない傾向にあり、逆説的ではありますが、豊かな国では貧しい母親がしない傾向にあることがわかっています」って、前者はミルクや離乳食を十分に与える余裕があるのだろうし、後者はミルク飲ませてる間に外で稼いだほうが生存できるからでしょうよ。
科学的根拠が提示されないので、いつまで経っても信念や信仰や思想のぶつかり合いをするしかない。素人は何に従えばいいか困ってしまうので、不安に漬け込むビジネスがはびこる。オキシトシンとかなんとか、科学的な用語を使っている解説すらも、信仰や思想に基づいた言説のように思えてくる。しかし、授乳は人間の身体の問題であって、生物学的なことのはずなので、科学に基づいた科学によって書かれたネット記事が検索の1ページ目に上がってきてほしいものだ。これは授乳に限った問題ではなく、非成人男性の身体全体に関する問題の一端に過ぎないと思う。
朝、みんなでラジオ体操をする。ラジオ体操に参加しない人も結構いる。私は新入社員なので、一応毎日欠かさず参加するようにしている。まあ普通にラジオ体操好きだし、デスクワークなので肩や腰を伸ばしておきたいので、積極的に参加している。そういえば、新入社員以外でラジオ体操に参加している女性が一人も見当たらない。もしかしたら工場の奥でやっているのかもしれないけれど、とりあえずおじさんしかいない。ラジオ体操の後に朝礼がある。新入社員なので朝礼も欠かさず参加していたら、上司に「今日から体操だけでいいよ!朝礼は管理職だけなので」と言われ、朝礼を卒業した。
そっか、ラジオ体操に参加しているのは、朝礼に出る管理職の人がほとんどなんだ。
管理職に女性が全然いないってことじゃん。
ということに気づき、これからも毎日欠かさずラジオ体操に参加しようと決意した。管理職になれるかナ。
みんなほぼ無言で食事をとる昼休み、通路を挟んだ隣の席でいつも会話が聞こえてくる。立っている一人が「今日の一言ですっ」と言って社食の弁当の蓋を、座っている一人に見せに来る。なんか日替わりで名言とか書いてあるのかな。なんと平和な昼休み。私も弁当の蓋の一言を見せに来る部下を持つ管理職になりたい。
最近、なぜか梅干しが毎日のように供給される。同じ列の席の人に「今日もあるよ♪」と告げられ、私は弁当箱の蓋とお箸を持ってキッチンに梅干しをもらいに行く。梅干しはなんか口内炎に効きそうな感じがするのでありがたい。はちみつと鰹出汁の2種類置いてあり、「どっちにする〜?」「え、そっち酸っぱくないの!?」とか言われながら梅干しをもらう。いつも電子レンジで温めるのを待っている人は「自分、梅干し苦手なんですよね〜」という会話を毎日している。絶対にいつもこの会話しか聞かない。梅干しによってコミュニケーションが支えられている。誰が持ってきてくれているのかわからないが、梅干しは好きなのでありがたい。
会社に入って1ヶ月と少しが過ぎた。時代の流れもあってなのか、もともとこの土地の性格なのか、寛大な大人たちに恵まれている上に、海や緑の匂いで季節の変化を細やかに感じる日々が心地良い。
大学生の頃、カフェで「私、資本主義向いてないと思う」と友人と話していたら、隣で新聞を読んでいるおじさんに鼻で笑われた気がしたのをいまだに引きずっている。行き過ぎた新自由主義とか、個人の尊厳がやたらと生産性に回収されてしまうのは今でも問題視しているけれど、優等生でやってきた自分は成績上げゲームは得意で、会社という組織でビジネスゲーム攻略法を勉強するのを結構楽しんでいる。大学生の頃の自分には信じられないだろうけれど。
一方で、家では相変わらず友人とリモート読書会を続けている。週5で毎日8時間一緒の空間で過ごしている同じ会社の人たちは、私が家で読んでいる原広司やエドワード・ショーターのことを知らないし1mmも関係ないのだと思うと、私は一度に2本の人生を並行しているような気がしてくる。これまでは、生活も思考も人間関係もひと続きだったから、本当に不思議な気持ち。
同じ会社の制服を着て車で通勤している人の車種を見ては、彼らは会社人としてまっすぐ人生を歩んできたんだな、というふうに見えてくる。この制服でこの車に乗ることを選んだのだなぁ、みたいな。たぶん私も、この会社で1本の人生を歩んでいるように見えていると思う。
私は一足目のわらじがアートプロジェクトで、会社は二足目のわらじだと思っている。一足目のわらじは、金銭を稼ぐというよりは、人間関係を繋いでいくためのものだと思っている。今初めて文字にしてみたけれど、面倒くさがりな割に休日に出掛けていろんな人と会ったり友達になったりできているのは、やはり、わらじ効果かもしれない。就活を始めた頃から、専門に学んできたことを仕事にしない理由を問われることが多かったのだけれども、二足のわらじは二足ともお金を稼がなくてもよくて、でもちゃんと自分のわらじとして履いてますよ、と胸を張って言えればよい気がしますね。
あと、カッコつけてきたけど、もっと話しかけやすい人間になろうと思った。
東京を脱出し、尾道で就職してから初めて、GWに松山へ帰省した。ついに帰るんだという実感が湧いてから、急に松山の空気を思い出し、嬉しい気持ちで連休を迎えた。
偏食の弟は牛丼が食べられるようになり、倹約家の母は頻繁に自販機でジュースを買ってくれるようになり、父は車の運転中に不注意が多く、祖母の60年モノのミシンは壊れたらしい。古くて小さかったJR松山駅は、新しく大きくなったせいで象徴性が失われた気がする。駅舎の全体像がパッと思い出せない。
母が出店するマルシェに着いて行ったら、会場はイオンモールの中だった。雨が降っても安心。2,3万する手作り籐編みバッグはイオンモールに来るような客がポンと買ってくれるはずがなく、結局、母と私は(たぶん出店者の多くが)イオンモールで食事をして帰っただけだった。いい商売だね。カゴ編みで個人事業を始めた母は、個人経営やローカルの飲食店ではなく、くら寿司で夕飯を済ませる。こうやって大企業の売り上げに貢献するということは、大企業が安く高品質で籐編み風のカゴを売ることに繋がってしまう気がするのだけれど。趣味でビジネスを楽しんでいると捉えればいいのかな。
GW明け、会社の人に「今度松山行くんですけど、おすすめの場所ありますか」と聞かれて、ボルガノというハンバーグ屋さんの店主のおじさんが面白いよと伝えてGoogleマップを見たら、3ヶ月前に閉業していたことが判明した。悲しい。悲しい気持ちを抱えて帰宅した。お店の人と気軽におしゃべりできる系の飲食店は、松山ではボルガノくらいしか知らない。尾道は割と誰とでも話せる雰囲気のお店が多い。
こんな出来事により、自分の中の松山の魅力度が<尾道になってしまっており、18年間過ごした過去の松山が離れていってしまうことが寂しい。高校の近くの此の花うどんもコロナ禍でいつのまにか無くなっていたのを思い出した。寂しい。
半分だけ浦島太郎状態での帰省はなんだか疲れてしまい(完全に観光気分だったらそうでもなかったのかも)、島に帰ってきて、すごく落ち着いた。松山はコンパクトシティだと思っていたけれども、今住んでいる島の方がもっとコンパクトで、自分はおそらく小さい社会が好きなんだなと自覚した。アートプロジェクトやっててもそう思うし。
尾道はこのまま観光客や移住者が増えていったら、どんなふうに変化するんだろうか。そう考えると、受け身ではいられないなと思う。松山にも、尾道のような"自分の居場所感"を感じられるような何かを自分で見つけたいし、きっと変わってしまうであろう尾道の中でも何かを続けていきたいと思う。
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2026年2月のある日(木)
タイミーでチラシ配りをやってみた。お店の人がめっちゃ良い人だったので、通行人がチラシをもらってくれなくても気楽にできた。前に住んでた寮の最寄駅だったので、もしかしたらと思ってたら後輩に会った。チラシもらってくれた。ありがとう。
帰りは、バインミーのお店に寄ってみた。客が私しかいない。結構おいしかった。
駅から寮に向かう、かつての帰り道を歩いて帰宅することにした。懐かしい。当時は上京して最初の土地だったので、全部当たり前のものだと思っていたけど、割と独特な街だ。おいしいパン屋さんは、看板がなくなっていて心配になったが、金土日の朝6:30〜やっているみたいだ。
同居人が前に一人暮らししていたアパートの玄関をチラッと覗く。よく通いつめたものだ。ドアは木目調だったのか。
もう少し私が柔軟に考えていたら、と寂しくなった。一緒に住むことしか頭になかったが、私が大学の寮を出て普通の部屋を借りるとか、あのアパートの居場所を残すという選択肢を一瞬でも提示できればよかったのにな。2歳と5歳が違うくらい、25歳から見た22歳の自分は人付き合いも人生経験も浅く幼かったなと思う。常にそう思いながら生きていくと思う。自分の価値観が必ずしも世間一般の価値観ではないことを、いまだに学んでいる。賃貸は広くて安ければいいというのは視野の狭い貧乏人の発想だ。お金に余裕のある人は、お金以外のことについて考えているのだという当たり前のことを自分は全然わかってない。
大学の寮は全然懐かしくない。懐かしみに行こうとも思わない。建築がつまらない。住み心地よりもコストを優先して部屋が組まれている感じが嫌い。人間も流動的に入れ替わる。ただ仕方なく住んでいたという感じしかない。でも、みんなが仕方なく住んでいるはずというのは大間違いで、愛着のある人もいるだろうと思う。でもまだきちんと理解していないので、嫌いとか酷いこと言っちゃう。
いつからか分からないけど、私は生きていくために、積極的に諦めるようになった。母親の断捨離ブームに毒されてきたのだと思うが、そもそも断捨離ブームは3.11からきていると聞いたことがある。単に物が少ない方が災害時に危険が少ないということだろうけど、最初から所有物が少ない方が、失くしたときの悲しみも小さく収まる気がする。
小学生か中学生のころ、お坊さんが何かのコラムで「人の死を受け止められるようになるために修行をするのだ」みたいなことを書いていたのを読んで、なるほどと思った。私は、ものをなくしたり人が死んだりしたときに、自分が悲しくなることが怖いのだと思う。しかし、私は修行をしていないので、悲しみを避けることばかりしている。回避することが努力だと勘違いしてきたので、他人に対しても、悲しみを回避する努力をすればいいのに、と冷淡なことを思ってきたが、それでは共感が皆無である。共感しないから他人を傷つけていると思う。「寮が嫌い」みたいなこと言うところ。
人から譲り受けたものを使うのが好きだが、もう要らないかな、となったときに捨てることができず、かといって要らないのにな、という葛藤を抱え続けるのが面倒だったりする。寮に住んでいた頃の自分なら、いつ捨てようと未練の残らないテキトーな家具や服ばかり買っていただろう。でも、その方法で自分が凝り固まっていると、無自覚に他人もそうだろうと思い込んでしまうので、扱いが面倒な気持ちの処理方法をいろいろ編み出していったほうがいいかもしれない。自分の気持ちに向き合おう。
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2026年2月の次の日(月祝)
今日はまだ2月というのに20℃を超えている。アイスコーヒーがよく売れる。2月のこの時期は毎年暖かい気がする。
〜〜〜〜
2019年の2月、大学の二次試験が終わった後、ちょうど東京にいるという高校の先輩と会うことにした。二次試験の日、電車が遅延して試験時間が繰り下げられたので、試験の終了時間も遅くなった。連絡を取りながら上野公園の公衆トイレ前で無事に落ち合い、とりあえず上野駅の方へ向かった。受けたてほやほやの試験の話。東京オリンピックって1964年でしたよね?よかった、たぶん合ってる。周りの先輩たちが浪人してるから、浪人に躊躇がなくなってるでしょ。とても天気が良くて、この時期にしては暑いなと思った。先輩が目星をつけておいてくれたイタリアンか何かのお店は空いておらず、上野駅まで行ってカレーうどん屋でお昼を食べた。
上野ってどこで何食べたらいいのか、いまだにわからない。飲み屋か、観光地価格か、店内が狭いか、アメリカン・サイズか、ちょうどいい店がない。もうあのとき待ち合わせた公衆トイレもない。
2026年2月の次の日(日)
ドネーションされない抜け毛を掃除するのは誰か
畳の部屋の職場で、掃除機をかける。最近なんかやたらと長い髪の毛が落ちている。そういえば今回来ている人は2人とも髪を腰の長さまで伸ばしていて、ポニーテールにしている。家で長い髪の毛が抜け落ちていても気にしないのだろうか?髪を切るかもう少しお団子とかにして纏めるか、床に抜け落ちないように清潔にしてほしい。そんなことを思っていたら、2人ともヘアドネーションのために髪を伸ばしているらしい。社会的善行はできるのに、身近な人にかかる迷惑は考えられていない。ボランティア精神旺盛で社会的にはとても良いことをしているのに、話し声が大きく笑い声が甲高いので周りを疲弊させたり、自分の代わりに名刺交換をしなかったスタッフを責めたり(知らんがな)、客をフィールドワークに連れ出して撤収時間に遅れたりする。とりあえず表向きのおもてなしや社会的善行が優先される。社会的善行をしていることに甘んじて生きているんじゃないかと思ってしまう。畳に落ちている髪の毛を掃除するのは自分たちじゃないから、気にならないんだろうな。
2026年のある日(日)
昨日は17時くらいに鎌倉パスタを食べ、20時半くらいには中野の喫茶店を出て、帰ったらすぐにお風呂に入るぞという意志を固く持って最寄り駅から早歩きし、風呂を出たらまだ22時だった。6時にアラームをかけたけれど、結局ちょっと眠くて、6時半に紅茶ドーナツを食べて二度寝した。二度寝したら、6時半に起きた時よりも余計に身体が怠くなることがわかったので、もう二度寝をするのはやめようと思う。多少眠くても6時に起きた方がいい。
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二度寝の夢って色が鮮明で衝撃的なシチュエーションが多い。
合宿みたいなのに参加したら、他の参加者が畳の部屋に集まって座っていた。みんなが向いている前方には静かに出産している人がおり、ドン引きした。私は出産鑑賞に加担してはいけないと思い、下を向いて書類に捺印することに専念していたのだが、なかなか綺麗に押せず、1時間くらいかかったな...と思うなどした。
2026年2月のある日(木)
今日のコーヒー屋のバイトは、人が足りてなかったのか、私が一番勤務歴が長く(10か月)、他の2人はまだ半年も経っていない新人という超不安な体制だった。大きなトラブルなく何とか終えられて一安心。
帰宅してオンライン家庭教師。今日と明日は学年末テストだ。初日に保健体育・音楽・美術・技術家庭科、2日目に主要5教科というスケジュール。明日の5教科の勉強を進めたいのに、今日のテストで集中力を使い果たしてしまったのか、いつも以上に「わからない」を連呼し、諦めモードだ。テストのスケジュールを組んだ学校をちょっと恨む。
夜、人生初リアル・タイミー。ホテルのレストランの調理とだけ書いてあり、清潔感のある黒Tシャツ、汚れてもいい黒ズボン、滑りにくく濡れてもいい黒シューズを身につけて、都心へ向かう。この時間の上り方面にしては意外と混んでいる。
上下黒い服指定だったので、てっきりホール担当かと思ったら、食器をひたすら洗浄機に入れては拭き上げる担当だった。皿洗いのバイトに密かに憧れ?というほどでもないが、黙々と単純作業をやってみたかったのが実現できた。なぜかオルゴールミュージックとハウスミュージックが同時に再生されている。初めて来た場所なのに、もう従業員として無理やり馴染んでいる感じとか、ステンレスの厨房と明るい蛍光灯の空間とか、やけに夢っぽいなと思った。陽気な白人スタッフに「大学で何やってた?」と聞かれ、咄嗟に「音楽とか美術とか...」とテキトーな受け答えをしてしまったのだが、オルガンをやっていたことを伝えると「僕も音楽作るときにオルガンの音をよく使うよ」と言って、Rhodes Pianoについて教えてくれた。
2026年2月のある日(水)
日記を書く時間がない。いろんな提出に必要な書類を新居に置いてきてしまった。東京に置いておくんだった。忙しかったからそこまで管理しきれなかったよね。プチ絶望。