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他人の書いた文字を読む

ワークショップで、紙に書いた短い英文を参加者どうしで回して音読する機会があった。私は、他人が書いた、しかも別の国で教育を受けた人の書いたアルファベットがパッと見て解読できなかった。よくわからないまま読み上げて、(どういう意味だ... ?)と思いながら何回か目を通して、ようやく「gear」が「year」であることに後で気がついた。「quicky」という単語を私が知らないだけかもしれないと思い、そのまま読んだら、正しくは「quickly」だった。文脈で判断するしかない。

私たちは、無数の他人の手書き文字を見慣れていくことで、規範となる字形から逸脱した部分を補正して認識できるようになる、というのをどこかで読んだ。私は高校を卒業して以来、日常的に他人の書いたアルファベットを目にすることはない。普段PCで打ち込まれた、機械的で整ったアルファベットしか目にしていない私は、他人の書いた「整っていない」文字を認識できなかった。

学校教育がどんどんタブレットで進められていて、日常的に他人の手書き文字を見る機会は減っていく一方だと思う。いざという時に他人の手書き文字が解読できなかったら、結構不便なのではないか?みんなが美しく整った文字を書けたらその心配はないけれど、このままだと下手になる一方だ。字が下手な人が悪いのではなく、人間の書いた文字を解読できなくなることのほうが問題になってくると思う。

振り返り2

年度が明けてしまったけれど、今のうちに振り返りの続きを。

hikari1209perc.hatenablog.com

文句を言いながらも、楽しいことも多い1年であった。

授業の質はめちゃくちゃだけれども、同級生には自分と同じような問題意識を持っている人が多くて、心強かった。

他科のゼミ(といっても、学部でお世話になった先生のゼミ)に出入りしていた。他大学で理論を学んでから入学した人が多い研究科なので、議論は活発に起こるし、先生も客観的で鋭い視点から指摘をくれる。

後期からは、他大学のゼミにも通った。私が学部2年から毎年リピートしている授業があるのだけれど、それを担当している先生の常勤大学での卒論ゼミである。所属している学生は自分より1学年下の人たちだけれど、社会学のゼミで各々が多種多様なテーマを取り上げているのが新鮮だったし、それを全部指導する先生もさすがだなと思った。論文の内容が全然固まっていないような学生にも、いろいろ質問をしながら考えを引き出し、適切な参考文献を紹介して、論文の方向性に希望を持たせるような、いやこれが論文指導として当たり前のレベルなのかもしれないけれど、これが教育者だよなと思った。

授業とは別のことでいえば、いくつかのオンライン読書会に出ていた。知り合いに誘ってもらって、複数人でやっている読書会では、これまた他大学で理論を学んでいるいろんな人と知り合えて、議論できるのが心地よかった。また、学部時代の友人と2人読書会もしていた。先生と友人と3人で居酒屋に行ったとき、「とにかく毎週でも隔週でもいいから、集まって、一緒に何かを継続するのが大事だよ」という話をされて、じゃあ2人で本を読もうと決めて、なんだかんだ1年近く続けている。1人で読むにはちょっと難しい本を、丁寧に話し合いながら読み解いていくのがまた心地よい。

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そして、学部時代の何人かの友人たちと、定期的に集まってお喋りをしたり、展示を作ったりという活動もしていた。同じ学科で4年過ごしたとはいえ、関心や学んできたものが少しずつ違うので、今更ながらお互いを知ったり、自分の専門性を自覚したりする機会になった。個人的には、作品を作るわけでもなく、マネジメントをするわけでもない立場から、話し合いにじっくり参加したことで、自分の立ち位置が掴めてきて、経験として大きく蓄積された感覚がある。

soco1010.space

こうして書き出してみると、いろいろ新しいこと継続してやったじゃん、と思えてきて、ちょっと安心した。今いる大学や教員に対する反骨精神みたいなもののおかげで、成長できている時期かもしれない。

テレビに出ると、知らない人が私のことを知っていてちょっと怖い

1年前、たまたま自分がアートプロジェクトを開催しているときに、テレビの取材が入った。テレビは不本意に短い尺で切り取られるから不安だなと思いつつ、悪い番組じゃないと思うよ、と周りになだめられて、恐る恐る出た。

誰にも告知してなかったのに、「テレビ出てたよね!」とあらゆる知り合いから声を掛けられて、想像以上の反響だった。初対面の人にそのプロジェクトの話をしていると、「テレビで観たことあるやつだ!」と気付いてくれる人もいて、説明が楽だなと思う。

でも、全然知らないところで自分のことを知っている人がいるというのは怖い。アイディアに著作権はないので、私のプロジェクトは簡単に真似できるし、他の人にもやってみてほしいと思っている。しかし、私の知らないところで勝手に利用されて、個人の金儲けに使われるとかならまだしも、労働搾取的な使われ方をされたり、アイディアを実施する権利を独占されたりしたら、自分の思想とは反するものになってしまうなと思う。実際に参加してくれた人や、その知り合いぐらいの範囲であれば、その心配も少ないのだけれど、テレビはどこで誰に観られているのか把握しようがない。

自分が企画したアートプロジェクトは自分の居場所なので、あまり簡単に晒してしまうのは危険だ。

田んぼに火をつける作品の夢

過激な夢だった。

みんなで作品を作ろうということになった。キャンパスの中庭が一面田んぼになっている。そこに少しずつ火をつけていく。何回か試作したから、周りは危険性を理解しているはずが、当日は人がたくさん集まってしまい、鳥や缶を投げ込む人が出てきてしまった。自分たちは危険なことがわかっているので、部屋から見守っていたが、観衆は中庭に出ている。そのうち警察が来て、部屋の隅に隠れていたら、全員前に出てこいと言われて、ベンチに座って中庭を鑑賞させられる。火が収まったかと思ったら爆発する現象を、なぜか「エコーチェンバー」と呼んでいた。火が部屋の中に入ってきて危ないなと思っていたら、誰かがライフルを撃ち始めて、爆音が怖くなって、走って自分だけ逃げた。廊下を走っているところで目が覚めた。動悸が止まらない。

直接言えないシリーズ「異性の友人と2人で会えない」

帰省するので、地元にいる友人たちに会えないかなと思い、どうせなら共通の知り合いは同じ日にまとめて集まれたら、と思って、2人に声をかけた。1人は、最近彼女ができたらしく、「もし、もう1人の予定と自分の予定が合わなかった場合、2人だけで会うことはできない」と言われた。友人は彼女から「大事な後輩であることは知っているけれど、2人きりでの食事は、なんとなくモヤる」と言われているらしい。これを聞いて、めちゃめちゃモヤってしまった、私の方が。

私は、彼女の意見を尊重しようとしている友人を尊重したいので、あまり踏み込まないようにしている。ただ、結果として、自分のモヤモヤを我慢することになった。

自分は、単なる「異性」のカテゴリーに収められて、制限されてしまうんだ、と思った。たしかに、高校生ぐらいまではそういう単純な社会で生活していたはずだけれど、今になって、と思った。まだ属性で見られてたんだ。

恋愛は属性を超越しない前提なのか。属性で恋愛してるんだ。私の世界の方が、友人の世界より複雑になりすぎたのかもしれない。友人をとりまく世界は、男性と女性が恋愛をする、同性どうしでは恋愛をしない、そういうシンプルな世界なのだろう。属性で判断して浮気を防止できるなら、とても簡単だ。属性に関係なく、個として恋愛をする世界では、浮気を防止するために会食を制限していたら、私以外の人間と食事に行くな、ということになってしまう。浮気してほしくないとしても、人間関係を制限するという手段はまず使わない。

もう一つ、恋人の友人関係を制限することは、本当に相手を尊重しているといえるのか?というモヤモヤ。そもそも、相手が自分のことを一番に尊重してくれているという実感があれば、浮気の心配をする必要がない。自分が一番だという自信があるから。もっと相手の幸せを尊重するなら、浮気も悪じゃない。好きな人には、その時に最も幸せな選択をしてほしい。「浮気=悪」になるのは、自分がないがしろにされたと感じるからだろうし、尊重されている実感がある限り、恋人が他の人と仲良さげにしてたとて、なんとも思わないと思う(理論上)。むしろ機嫌良くなって帰ってくるなら、嬉しいじゃん。

『関パンク宣言』という曲がちょうど刺さった。今の私は完全にこっちだ。

youtu.be

とはいえ、単に寛容であることが、相手にとって一番とは限らないのかもしれない。相手から束縛されることで、自分を束縛してくれる存在(=恋人)がいるという優越感に浸る人もいるだろう。自分も高校生くらいまでそうだったし。そういう人は、何もかも寛容にされると、物足りないのだと思う。束縛してほしいという友人の(潜在的な)ニーズを、パートナーが尊重しているともとれる。

 

直接言えないシリーズ「カメラオン」

言いたいことは直接言うべき、が最近ただの綺麗事になってきた。その場の空気とか、相手や周りとの関係とか、そっちを優先してしまう。SNSや第三者を媒介して文句言ってる人がいると、いや直接その人に言えばええやん、と思ってたけど、それができないときもある。言い方さえ工夫すれば、嫌じゃない感じで直接伝えられるだろうけど、なかなか難しい。でも溜め込むのも良くないので、とりあえず今はここに書いておく。

今さらだけれど、オンライン会議でカメラオンにすると、身体が拘束される。私は家で過ごす時、部屋を歩き回ったり、椅子にあぐらをかいたり、ソファに横たわったりする。オンライン会議では、みんな大人しく正面を向いている。学校みたいだ。みんながみんな大人しく座っているので、自然と空気を読んで、自分もそうする。しかし家の中であって、学校ではない。すると、家の中で自由に動き回ってた身体が、途端に緊張せざるをえない。そして、家の中での自分が、家の外に放たれてしまわないか常に心配しなければならない。家の中での自分は、外での自分と比べると不完全である。(という感覚なので、家に他人がいたほうが、無駄や欠陥を最小限にできる。家の外がそのまま家の中に接続される感じ。)オンライン会議は、家の中にいながら、家の外の自分をわざわざ作り上げて維持しなければならないので、外にいるとき以上にエネルギーを必要とする。集中力も切れる。

あと、自分の正面がフレーム内に切り取られ、自分が常に客体化されている状態が続くのが、気持ち悪い。写真なら一瞬我慢すればいい(写真も苦手だ)けど、それを会議が続く限りずっと耐えなければいけない。家の中の自分が、家の外に放たれないか心配するのと同様に、自分の正面の完璧でない瞬間が切り取られ残っていくことを恐れている。逆に、完璧な自分しか残らないのであれば、写真も動画もむしろ積極的に撮られたいと思うので不思議だ。(楽器を演奏しているときの自分は最も完璧、あと服のコーディネートを完璧に組めた日とか)

どうすればいいんだ。空気を読むことから逸脱したい。そして完璧であろうとすることをやめたい。と思っているのに、空気を乱さぬコミュニケーションが完璧にできないから、溜まる一方。空気を読まなくていいのなら、カメラオンで普通に部屋をうろうろしたり、あぐらをかいたりする。完璧でなくていいのなら、PCとの距離を気にせず画面を間近で覗き込む。

整理整頓欲

先日、北千住の串焼き居酒屋で面接ごっこをして遊んでいたとき、「学生時代に力を入れなければよかったことは何ですか?」という質問が出た。意外とパッと思いつかないもんだ。私は、「高校受験の面接対策で、第一志望の高校の校訓を必死に覚えたこと」と答えた。「創造・協働・自律」みたいなやつを頑張って覚えて、直前まで友達と確認し合ってたのに、入学してからその校訓を一切目にすることはなかった。当然入試でも聞かれなかった。

私はもう一つ思い出した。「ノートをめっちゃ綺麗にまとめていたこと」。テスト勉強の度に、めっちゃ綺麗にノートをまとめていた。でもそれは、覚えたりするためではなくて、綺麗にまとめとけば先生に褒められるのだと経験的に分かってやっていたし、テスト勉強やってます感を稼ぐためにそうしていたと思う。時間も体力もないので、ちゃんと勉強していることをアピールしておかないと、と必死だったと思う。英語の担任(めっちゃ怖い)からは、「努力は伝わってくるんだけど、ちょっと方向が違ってるのかもね。上手く結果に繋がるといいんだけどね」と、三者面談で母親もいる前で、やんわり優しく指摘してもらっていたはずなのに、当時の私には褒めの部分しか届いていなかったと思う。ほぼ毎回赤点だった。志望校の校訓にしろ、ノートを綺麗にまとめることにしろ、中学校は無駄なことばかり教えているなー。

ノートをめっちゃ綺麗にまとめていたのは、勉強の面では非効率的で無駄だったかもしれないけれど、もしかして今、自分の企画のフライヤーをデザインするときに役立ってる!?いや、でも自分の学生時代に手書きノートが存在しなかったとしても、丁寧几帳面整理整頓好きは発揮されていたと思う。整理整頓欲が別の何かで発散されていれば、もっと効率重視でテスト勉強に励んだだろうか。そんなことはないか。中学までの勉強や生活態度の評価は、丁寧で几帳面な性格の人間が有利だと思う。問題文をきちんと読めているかを問うてくる問題とかあるし、ノートを綺麗にまとめていたら成績上がるから。性格勝ちゲームじゃん。

話がどんどん逸れるけど、整理整頓は個人の欲求であり、他人に強要するものではない、と思い始めている。部屋が散らかっているからといって、その人に片付けろ!と怒りをぶつけたり、他人が放置しているものを「いつも自分ばかりが片付けている」と見返りを求めたりすべきでない。片付けを頻繁にする人は、整理整頓欲が強いだけで、片付けない人は、別に綺麗にしたいとか思わないだけだと思う。前者が立派で模範的で、後者が劣っているとか、そんな構図は存在しない。ただ、片付けが必要な時もあって、それは片付けをしたいかどうかに関わらず、片付けをしないといけない。小さい子どもがいるとか、怪我や病気や事故のリスクがあるとか。そうでない範囲であれば、片付けは個人の自由だ。(私は他人に対して、ちゃんと片付けろ!とは思わず、むしろ自分の整理整頓欲を発散できるなら他人のために片付けをしてあげたいと思っているので、相手が望むならば片付けをさせてもらう)

この前、一人暮らし2年目の妹の部屋に泊めてもらった。つい善意のつもりで、キッチンのシンクに溜め込まれた食器を片付けたけれど、ドレッサーの引き出しの中の混沌は、才能だと思った。整理整頓欲がある人間には、あの秩序のなさの蓄積は作り出せないと思う。メイク道具、文房具、キーホルダー、家の鍵などが全部一緒に入っている。それはそれでいいのかもしれない。