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アンチテーゼが効かない

思考停止

「当たり前」に疑問を投げかける人間は、どれ程居ただろうか。自分はその一人になれるだろうか。

「自分はたくさんのことが得られた」「みんなしっかり考えてやってるから」何が得られるの、どんなこと考えてるの、これさえ共有できれば、充実した、前向きな、良い意味で刺激になる答えが出せそうである。知りたくてたまらない。

「当たり前」が、ただの惰性なのかも、感情論だけなのかも、と気づいたのなら、惰性から抜け出そうとし感情論ではなく意味を見出そうとするものと、私は思っていた。

惰性は思考停止状態。

じゃあ、惰性であるならばやめてしまった方がいい。という判断も結局は思考停止。

アンチテーゼが効かない

私は、一人一人が意味を見出そうと思考するよう努めるべきだ、というのが結論だと思っていた。やめてしまえ、というのはアンチテーゼであると。だが、先輩面して青春だの経験だのと主観的な価値観かつ曖昧な概念で批判する者は言うまでもなく、本人の結論さえ、過激な思考停止派にみえた。アンチテーゼを真に受けられてしまうから。

一人一人が自分の中に意味を持っていることが、本来あるべき姿ではなかったのか。何年過ぎてからでもいいから、あの時の意味は、経験はなんだったのだろう、と静かに思いを馳せても遅くはないはずだ。

少なくとも私は今、三年間の出来事が、自分に、数百人に、数万人に、何をもたらしたのだろう、これからの数千人に何をもたらすのだろう、と思考している。今まで深く考えたり言語化しようとしたことがなかったから、良いきっかけを与えてもらった。

あたまの中から外へ

現実的かどうかなんて気にせず、自由に想像し語ることができるのは、今だけの特権だと思う。大人には無いその自由度と柔軟性は貴重なんだろうと思う。(と勝手に自負して書いている。)

ふと考えたことを、いつでも世界へ、しかも瞬時にばら撒くことができるから、自分の主張を持ってたくさんの人と議論することもできる、ように思える。でも、ついさっき考えたことをいきなり外の世界にばら撒くと、火が点いて次々と油を注がれることになりかねない。結局、ふと考えたことはじっくり時間をおいて温めた方が、深く濃密に、しかも長持ちするのではなかろうか。因みにこの文章は浅くてスカスカで日持ちしないうえに燃えて灰になります。