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何もない空間を作れるか

高い芸術家ピラミッドの横に、小さい公園の平穏を作りたい

高くてデカいピラミッドがある。頂上の方には、優れた作品を生み出す芸術家がいて、その下には、そこそこの芸術家や、ただ鑑賞するだけの者がいっぱいいる。下のほうの人たちは、上を見上げて、そういう優れた芸術家や作品をありがたく享受したりする。私もありがたいと思う。ただ、ずっと上を見上げていると首が疲れてくる。たまには小さい公園の砂場とかで遊びたい。

小さい公園では、誰が偉いとか、誰が下とか、関係ない。みな対等な存在である。ピラミッドの構造は必要ない。厳しい世界から一時的に休憩を取るための場所だと捉えることにしよう。

体裁の作家性から撤退し、機会やルールだけを構築する

ピラミッドの上に君臨する者は、創造主でなければならない。創造主である作家自らが最初から最後まで一貫して独自性を発揮しながら、クオリティの高い完璧なモノを作るべきとされる。粗を許さないストイックな姿勢が求められる。完成した時の達成感や美しさに浸る瞬間は至福この上ない。しかし、ピラミッドにいると、他人の作品の体裁や態度にまで妥協を許さない傲慢な完璧主義者が時々いる。苦しむことこそ美徳、みたいな。ほっといてくれよ。小さい公園へ行こう。

小さい公園には、砂場やすべり台やブランコなどが既に設置してある。私たちは、そういった誰かが用意してくれたものを使って遊んだり、新しい遊びを作り出したり、ただぼーっとしたりする。まあイチからすべり台を建てたり、砂場で遊ぶためにスコップを自作して持ち込んでもいいけれど、それは作品ではなく器具・道具である。遊べればいいのだから、私が作ろうが、量産された既製品を買おうが、どっちでもいい。

ピラミッドから距離を置き、公園での気軽な創造に取り組むにあたって、私は、見えるところ(体裁として)の「独自性」「ストイックな姿勢」から撤退しようと思う。すべり台のような備品や、スコップのような道具に、私の作家性を宿らせる必要はないと思っている。なぜなら、人々が遊ぶための小さい公園は、どこでもだれでも展開・応用可能であることが望ましいと思うから。ピラミッド疲れたなーと思った人が、地べたにレジャーシートやテントみたいにパッと広げられるといい。必要な道具はすぐ手に入れられるもので、仕組みやルールはできるだけ単純であるべきだと思う。

公園はみんなの場所である。ピラミッド上層階の住民ももちろん含まれる。だから、通りすがりの彼らに「公園であれ何であれ、創造主が、大量生産された既製品を使うなんてけしからん!」と言われる可能性もある。じゃあ、いっそのこと備品も道具も必要ない空間を作ってしまおう。「何もない空間」で遊べるように、ルールだけ考えていってみることにします。