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私と服の関係

ここ2年くらい、ほとんど祖母のおさがりか、祖母に買ってもらった服しか着ていない。あとは、何年か前に買った服。一時期に比べて全然服を買わなくなった。例えば、演奏会で黒のブラウスが必要だから買うとか、細身のデニムパンツがあったほうが便利かなとか、汚れてもいい安めのTシャツも持っておこうとか、明確に必要だと思った服は必要に応じて買う。しかし、店頭やネットで偶然見つけて、この服欲しい!という衝動に駆られることが皆無になってしまった。ウィンドウショッピングもしていない。自分の手が届く価格帯で売られている服に全然ときめかないのだ。服に関しては、完全に資本主義の罠を脱しているともいえる。

この感覚に慣れてしまうと、私はいずれ人を見下したりし始める危険性があるのでは、と思った。既に始まっているかもしれない。

祖母は洋裁をやっていた人で、着る着ないに関わらずハイブランドの服を結構(いくらか捨ててもなお店が開けるくらい)買い溜めてきた。着るために買うというより、服のデザインやパターンや素材や縫製の参考にするために買っていたんじゃないかと思う。ブランドを見て買うというより、祖母の目利きで選んだものを買っている。あとは、趣味の詩吟や歌の発表会で着る衣装として買ったものも多いので、ほとんど1度しか着られていない服が大量にある。そんな新品同様の高級な洋服たちを私はタダで貰って普段着として着ている。高級なのかどうかも知らない。予想以上に何倍も高い服もあるだろうが、知らないからこそ躊躇なく日常的に着用してしまっている。

帰省すると、必ず祖母と高島屋に行き、服を買ってもらう。特に欲しい服がなくても、とりあえず何も買わずに帰ることはない。何かしら新しい服を買う口実を見つけて、良さげな服を選んで買って帰る。自転車に乗りやすい服がいいとか、薄手で持ち歩けるパーカーがいいとか、デニムのジャケットは何でも合わせやすいからええやろ、など。

高くて個性的で良質な服ばかり着ていると、自分が普段着ているような服が本物で、ショッピングモールに並んでいるプチプラの流行服はおままごとなんじゃないかと思えてきてしまう。しかし、私は服を買うことの苦労を知らないからそういう風に思えるのである。祖母が何百着と湯水のように買ってきた服も、1枚1枚が、祖母の苦労や努力の結果として得たものである。

古着を捨てずに受け継いで着ることは、表面的には、SDGs的なことでいえば良いことだろう。しかし、その古着は状態が良いから未だに着られるのであって、みんながみんなおばあちゃんの服を着られるわけではない。私が良いことをしているのでは決してなく、私が例外的に恵まれているだけなのである。

自分ばかりが得をしている。服と私のこの特殊な関係性において、何をどうすべきなのだろうか。

会う人会う人に服を褒めてもらって、「これ、おばあちゃんのおさがりなんです〜」と言って毎回毎回驚きのリアクションをもらうのは、正直かなり気分がいい。そりゃそうである。H&MやGUのどこでも誰でも手に入れられる服より、洋裁のプロが選んだ何十年前のもう手に入らない数万円する服の方が魅力的に映るに決まっている。私はそれにタダ乗りしているだけなのである。服からコミュニケーションが生まれるのはとても便利で良いことだなぁと思っていたのだけど、褒められるために服を選ぶことができるのは単なる特権でしかない。褒められ以外のコミュニケーションのための服選びが必要かもしれない。

しかし、もうこの状況が結構楽になってしまっている。服を買わなくて良ければ、選び悩むことすらしていない。悩まず適当に選んで着ていたとしても、服が良いので褒められのコミュニケーションは発生してしまう。別の切り口からのコーディネートを考えるのが億劫である。

まあでもあれか、生まれつき顔が整っている人は、幼い頃から大人になるまでずっとかわいい美人だイケメンだと褒められているわけで、それで妬まれたり、あるいは上手い切り返しをしたりピエロになったりすると、「美人/イケメンなのに嫌味ったらしさがなくて親しみやすい」という印象を持たせられたりする。特権を持っている人間が、いかに相手を見下すことなく対等であれるのか。

答えが出ないけど今日はこの辺で