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生理痛の研究まじめにして

お腹痛すぎて心の中で悲鳴あげてる。「機能性月経困難症」とかそれっぽい名前だけ付けといて、診察で異常なしの生理痛は全部これやって言っておけば納得すると思ってるの?舐めすぎでしょ。

生理痛の治療の選択肢が少なすぎる。痛み止め・ホルモン剤・漢方ぐらいしかない。体質によって合わなかったり効かなかったりするときに、もっと他に選択肢がないと、痛みに耐える選択に後戻りするしかない。

そもそも、生理痛の原因も種類が少なすぎない?「機能性月経困難症=その他」ってことやん。もっと細かな分類ができるのではないかと思いますけど。「診察で異常なし」って、エコーと触診で子宮周辺しか診てないやん。もっと別の器官や組織の異常が原因かもしれないのに、そこが解明されていない。

原因が特定されず、治療法が確立されていない未開の地では、藁にもすがる思いの人たちをカモにすれば儲かる。整骨院の壁に、デカデカと貼ってある生理痛改善施術のポスターとか。改善するまで通ってたら何万円飛ぶんや。まだ効果はあるのかもしれないから、マシなほうだ。最悪スピリチュアルとかに走る。

あれこれ試してお金と時間を浪費するのは本当に無駄だから、遠回りさせないためにも、取り返しのつかないことにならないためにも、科学的に原因を判明させて有効な治療法の選択肢を増やしてほしい。

 

ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』序文〜1-1

読書会で、ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』竹村和子訳(青土社、1999年)を読むことになった。指定のページを一通り読んでも、読書会当日になったら読んだ内容を忘れそうなので、1章1節ごとにメモしていこうと思う。あと、読書会のたびに本を買いまくっているので、図書館で手に入る本はできるだけ買わずに出費を抑えたい。借りた本は2~3週間で返却しないといけないので、期限までにできるだけ読み進めておくためにも、要点と疑問をメモしておこうと思う。

序文 p.7

反抗したら叱られるといったような、トラブルを起こすとトラブルの状態に陥る構図、トラブルを起こすとトラブルに巻き込まれるぞと脅しを受ける現状で、いかにうまくトラブルを起こせるか。

根源的なものと思われている「男」・「女」といったカテゴリーは、社会的な「ジェンダー」も、生物学的な「セックス」ですらも、構築されたものにすぎない。そのことが明らかになれば、二元的なカテゴリーにどんな変化が起きるのか。フェミニズムが、カテゴリーによる制限から解放されたら、どんな新しい政治形態が可能になるか。

その事実を明らかにするために、フーコーの「系譜学」という批評方法を用いる。アイデンティティのカテゴリーを、唯一の起源とか原因と名付けることによる、政治上の利害を探っていく。男根ロゴス中心主義や強制的異性愛といった制度を分析し、脱中心化する。

第1章<セックス/ジェンダー/欲望>の主体

フェミニズムの主体としての「女」の位置や、セックス/ジェンダーの区別について再考する。

強制的異性愛と男根ロゴス中心主義を権力/言説の体制と理解して、ジェンダーにまつわる言説の中心問題をさまざまに解き明かしていく。

・言語はどのようにセックスのカテゴリーを構築しているのか

・「女性性」は、言語による表象に抵抗するものなのか

・言語を、男根ロゴス中心主義とみなすのか

・女であることと性的なことを融合させる言語の内部で表象される唯一のセックスが、「女性性」なのか

・強制的異性愛と男根ロゴス中心主義はどこで、どのように、ひとつに収斂していくのか

・両者の関係に破綻がおこる箇所はどこなのか

・さまざまな権力体制を支える「セックス」という架空の構築物を、言語はどのように生産していくのか

異性愛を措定する言語のなかでは、どのような連続性がセックスとジェンダーと欲望のあいだに存在すると考えられているのか。こういった項目は区別されているのか

・どんな種類の文化の実践が、セックスとジェンダーと欲望のあいだに不連続や不協和を作りだし、その三者間にあるとされている連関性に疑問を投げかけることができるのか

一 フェミニズムの主体としての女 p.19

女の表象は、すべての女を含めていない

女の生き方が誤って表象されたり、まったく表象されてこなかった状況に対して、フェミニズムは、女というカテゴリーを通して理解されるアイデンティティがあるという前提で、女を政治的主体として可視化することを試みてきた。

しかし、政治的、言語的な「表象」が先に存在することで、認知可能なものだけが主体として表象され、基準を満たさなければ主体として表象されることから外れてしまうということになる。

何が女というカテゴリーを構築しているのか、構築すべきなのか、明らかにされていない。

法の正当性のために、非歴史的で架空の基盤や主体をパフォーマティブに作りだす

法は「法のまえに存在する主体」という概念を生み出し、そののちそれを隠蔽する。その目的は、言説による形成物であるものの基盤に、きわめて自然な前提があるとすることで、法の規制的な支配を正当化するためである。法のまえに存在する主体が存在するとすれば、ひとはみずからの自由意志で支配されることに同意したことになり、それが社会契約の正当性を作りあげることになる。

したがって女が言語や政治においてどうすればもっと十全に表象されるかを探求するだけでは、じゅうぶんではない。

フェミニズムの主体である「女」というカテゴリーが、解放を模索するまさにその権力構造によってどのように生産され、また制約されているかを理解しなければならない。

「男の支配」に抑圧される「女たち」を普遍化することは、他の文脈を排除し、普遍性自体が空洞化し、フェミニズムは威圧的になる

「女たち」という語は、それが記述し代表しているつもりの人々の合意を得ることができる安定したシニフィアンなどではない。女であるとしても、それはそのひとの一側面であり、そのひとのすべてではない。ジェンダーは、人種、階級、民族、性、地域にまつわる言説によって構築されている様態と、複雑に絡み合っており、異なった歴史的文脈を貫いてジェンダーがつねに一貫して矛盾なく構築されているわけではないため、「ジェンダー」だけを分離することは不可能である。

家父長制のなかに、女の抑圧の単一な形態があるという西洋的な概念は、非西洋でなされるジェンダーの抑圧を本質主義的で、野蛮の徴候として説明してしまうものでもある。すべての女を表象/代表しうると主張するフェミニズムが、家父長制に普遍的な地位を与えなければと思い、まさに架空の普遍性に向かって、フェミニズム自身が突き進んでしまうことになる。

男性的/女性的という二分法は、各項の固有性を認識するために排他的な枠組みを作りだすだけでなく、女性的という「固有性」が脱文脈化される。

ピルもジエノゲストもやめてその後2

前回↓

https://hikari1209perc.hatenablog.com/entry/2024/01/28/201139

ジエノゲストを中止して1回目の生理が終わった。以前は排卵痛で下腹部がチクチク痛んでいたけれど、今のところ特に何もない。メンタルもずっと安定している。

生理が終わって1週間後、生理痛のような下腹部痛とともに、不正出血があった。月経以外で出血が続いたことがなかったので、トイレに行くたびにびっくりしている。いつ出血は止まるのか?

 

不正出血しかり、嘔気、微熱、腹痛、月経不順などなど、些細な身体の異常を確認するたびに、避妊に失敗したか?と心配になってネットで検索する。もし今妊娠したら、全く望まないこともないけど積極的に望んではいないという、なんともはっきりしがたい状況で、どういう選択を取るべきだろうか、とシミュレーションしたりする。経口避妊薬を飲む、中絶をする、もしくは結婚しておく、苗字を変える、住む環境を変える、など(これだけ選択肢に恵まれているだけ幸いだ)。主に影響を受けるのは私の身体で、最終的には私の選択が優先されるべきだけれど、その原因は私だけが関係しているのではない。意思を持って射精した側に責任がある。100%の避妊方法が存在しないことも了解の上で。相手の選択や自由意志を優先することと、相手に一任して自分が考える責任を放棄することは紙一重になりがちだけれど、両立させなければならない。

小さい民主主義の練習としてのアートプロジェクト、参考としてのフェミニズム

漢方が効き始めている最近、ここ数年で一番元気なんじゃないかと思う。いつもなぜか微妙にだるい身体をソファに横たわらせて、SNSYouTubeを見て1日を過ごすよりも、本を読んだほうがよっぽど面白いのではないかということに、ようやく気づいた。アルゴリズムに従って提供されるコンテンツを捌いていると、どんどん似通って煮詰まって、窮屈になってくる。しかし、この世には、もっと自分の人生に重要なことを、既に自分の代わりに記してくれている人がいて、それは思いもよらぬ方向へ導いてくれたりして、似通いが凝縮されるどころか、1つの問題をより深いところで広い穴を掘っていくことになる。その穴は、別の穴と繋がっていたりする。

他の女の子たちと同じように低用量ピルを飲み始めたのに、身体に合わず疎外感を経験した著者が、白人男性中心で発展してきた医療について言及した本。非男性の身体を持つ人々の健康を尊重するために、科学としての医療がすべき研究や診療、予防、教育などについて提示する。(という内容を1/3くらい読んでいる途中)

www.kinokuniya.co.jp

昨年から、フェミニズムに関する本を読む機会が増えた。特にフェミニズムを直接研究対象としているわけではないけれど、なんとなく関心があった。もともとは、学部1年で受けた現代美術史の授業で、ディズニーアニメの『シンデレラ』を、今のフェミニズム的な視点から観てみるという回がきっかけだった。メディアによって、子どもの頃から「理想的な女性像」を刷り込まれているということが衝撃的で、とても興味を惹かれた。

そして、最近になってちゃんと読み始めたのが、アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』だ。フェミニズムを勉強しようというよりは、話題となっていたこの本のタイトルを見て、即買った。自分に「セックス」する「権利」があるのだとしたら、それは一体どういうことなのだろうという期待があった。

www.keisoshobo.co.jp

フェミニズムをかじり始めて、勉強になっているなと思うのは、権威や搾取といった社会構造を自覚できるようになったことである。「大人の事情」みたいな感じで覆い隠されていることが、なんとなくこうなっているんじゃなかという気配を感じ取れるようになってきた。理不尽な状況に置かれたとき、それがなぜ理不尽で、自分が主張すべき権利がどこにあるのか、整理されて見極めがつくようになってきた。

そして、自分の権利を守ることだけでなく、自分が他人の権利を尊重するための勉強にもなっていると思う。私が自分で小さい規模のアートプロジェクトを企画したいと思ってきたのは、自分が理不尽な状況にストレスを溜めないで済む、かつ、他人を搾取しない民主主義国家を、自分の手が届く範囲に作りたいからではないか、ということに気づいた。

これで、私が読むべき本の方向性が1つ定まった。広義での「政治」について、政治の作り方について、勉強しよう。

難しい本を読む承認欲求の根源

小学5年生のとき、授業参観があった日、母に「難しい問題では手挙げるのに、簡単な問題のとき全然手挙げんよね」と言われた。たぶん当時の私は、オーディエンスの母親たちに、優等生だと思わせたくて張り切っていたのだろう。

大学院生になった今でも変わってない。すぐ読めそうな簡単な本ほど、買うのはお金がもったいないなと思うし、難しいよと言われている本ほど、わくわくしながらページをめくる。立ち読みじゃなく、返却期限に縛られず、じっくり読みたいので買う。

挙手に関しては、誰も挙げないなら自分ができる範囲で挙げておこうという気になり、他の人が挙げてるならわざわざ自分が挙げる必要はないな、と判断する。算数の問題にしろ、係決めにしろ、いつもそう思っている。他の人が答えられない問題や、引き受けられない責任を積極的に取りにいくことで、先生から「できるやつ」として特別扱いしてもらえるから、そうしてきた。なので、先生の目が届かないところでは、協調性も責任感も当事者意識もないただの迷惑な存在になっていたと思う。

簡単に解ける問題や、簡単に読める本は、それに割く時間が無駄だと思っているのかもしれない。だからやる気が起きないのかも。反対に、難しい本を解読できたら、その後いろんな場面(会話や、課題のレポートや、授業での発言など)でその成果を垣間見せることができて、周りから「できるやつ」として認めてもらえたり、尊敬してもらえるから、難しい本を読みたくなるのだと思う。

頭が良いほど、私のことを尊重したり尊敬したりしてくれそうな人がいると、つい、頭良い人仕草をしてしまう。私の賢さや真面目さなんてどうでもいいと切り捨てて私のことを尊重してくれる人がどれだけいるんだろう。

親が、妹のことは毎日叱るのに、私のことは叱ってこなかったのは、私のほうが勉強ができて、部屋が散らかってなくて、真面目に努力してそうに見えたからだと思う。私たちに対する両親の評価軸は大体この3つである。だから、私はこの3つをやることで周りから認められようとしてきたし、できてなければ罪悪感を覚える。

一方で、妹は、きっとこの3つの罪悪感とともに過ごしてきたのだろうし、私とは別の軸で周りから尊重してもらっているはずだ。賢さや几帳面さや真面目さではなく、愛嬌や楽器の演奏といったこと。練習を怠けて叱られても、音楽を続けているのは、それを万一やめさせられたら、承認してもらう手段を失うことになるからかもしれない。

私が高校生で音楽教室に通うのをやめたとき、もう楽器を習っている自分は認められ尽くした感覚があった。先生に習いに行って、わざわざ褒められにいかなくても、これからは自分で好きなときに弾ければいいや、と。

私は大学に4年間通った後、また2年通うことを選んだ。もう大学の先生に褒めてもらわなくていいや、と思える日はいつ来るんだろうか。学生の身分をやめてしまったら、承認欲求を満たす手段を1つ失ってしまう。社会に出て認められる、あるいは何も認められないって、どんな感じなんだろうか。全然想像できない。

ピルもジエノゲストも諦めてその後

ピルもジエノゲストもやめて、生理も終わって最高

ジエノゲストをやめて3日間くらいは、ホルモンバランスが不安定なのか、本当に奈落の底に落ちたように絶望的だった。その後、皮膚科で塗り薬と飲み薬をもらって、1週間も経たないうちに痒みは治った。休薬して3日目に生理が来て、いつも通り終わった。毎日朝夕の2回、半夏厚朴湯と当帰芍薬散料という漢方を飲んでいる。こないだまで続いていた絶望感が嘘だったかのように、寝起きは身体が軽やかだし、買い物に出かけるのも億劫でないし、ちゃんと食欲があるし、完食できないのではないかという不安で食事をする気になれずお菓子ばかりつまんでしまうこともない。過剰にハイになって疲れることもなく、ほどよく元気だ。ほどよく元気って、なんて最高なんだ。

2週間後、生理

なんか腹痛がすると思った翌日、生理がきた。前回の生理から2週間しか経ってないけど、排卵も同時に起きてたということだろうか。漢方を飲んでいるおかげなのか、メンタルや体力の落ち込みもないし、生理痛もほとんどない。生理痛がないのは、ジエノゲストやめて直後に出血があったばかりだからかも。経血の量も普段の半分くらいだ。

他の症状としては、異様にお腹が空く。つい先日まで全然食欲なかったし、完食できずに残してばかりだったのに。1人前の定食を食べても、まだ足りてない感じがする。こんなの高校生ぶりなんじゃないか?空腹のせいか、元気が有り余っているのか、昨夜(生理くる前日)は全然眠気が来なくて困った。翌朝からバイトの予定だったので、もしかしたら寝坊するかもな、と落胆しながら、カップスープでお腹を満たし、なんとか3時ごろ寝た。しかし普通に8時に起きれたし、なんならいつもよりテキパキ身支度を済ませ、10分ほど持て余してしまい、結局なぜか遅刻した。午前中は寝不足であくびをしながら過ごしたものの、17時すぎに上がって、遠回りのルートで買い物をして帰宅し、夕飯を食べて今これを書いている。めちゃめちゃ体力残ってる。

つづく

追記

と書き終わって30分くらいで普通に生理痛きた

ブラジャーを乾燥機にかけたい

ブラジャーという存在が苦手だ。なんだか押し付けがましい。ブラジャーは繊細だから、手洗いしたほうがいいらしい。洗濯機を使うにしても、パッドを外してネットに入れて、おしゃれ着用洗剤で手洗いコースで洗う。乾燥機なんてもってのほか。洗濯が終わったらすぐに形を整えて陰干ししなければならない。

洗濯から乾燥まで全自動でやってくれるハイテク洗濯機が開発されているのに、なぜ下着は1着1着丁寧に洗わないといけないわけ?しかも毎日?いつまで人間に家事させるつもり?下着は乾燥機OKがデフォルトになって?

靴下やパンツは、100均でも手に入るくらいだし、消耗品として使っている感覚がある。ブラジャーだって、安い無地のものでもいいはずだけれど、それを選んで買うという行為は、下着というより洋服を選ぶときの重みがある。ちゃんと選ばなければいけない。まず、デザインを選ばなければならない。ゴテゴテにレースが刺繍されたもの、「彼ウケ」「盛れる」「美しい谷間」みたいな宣伝がついたものばかり見ていると、ユニクロの無地のデザインはなんか味気ないな、と思って全然魅力的じゃなくなる。黒無地の靴下やパンツと同じような感じで手に取ることができない。広告の魔力よ。そして、ネットで頑張って検索してやっと見つけた、シンプルなデザインのものを買う。なんだか愛着が湧いてしまって、これは丁寧に扱わなければならない、という気にさせられる。え〜でも結局洗濯めんどくさいよね!!

いや、もうブラジャーは消耗品と思って買おう。ガンガン乾燥機かけようぜ。