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難しい本を読む承認欲求の根源

小学5年生のとき、授業参観があった日、母に「難しい問題では手挙げるのに、簡単な問題のとき全然手挙げんよね」と言われた。たぶん当時の私は、オーディエンスの母親たちに、優等生だと思わせたくて張り切っていたのだろう。

大学院生になった今でも変わってない。すぐ読めそうな簡単な本ほど、買うのはお金がもったいないなと思うし、難しいよと言われている本ほど、わくわくしながらページをめくる。立ち読みじゃなく、返却期限に縛られず、じっくり読みたいので買う。

挙手に関しては、誰も挙げないなら自分ができる範囲で挙げておこうという気になり、他の人が挙げてるならわざわざ自分が挙げる必要はないな、と判断する。算数の問題にしろ、係決めにしろ、いつもそう思っている。他の人が答えられない問題や、引き受けられない責任を積極的に取りにいくことで、先生から「できるやつ」として特別扱いしてもらえるから、そうしてきた。なので、先生の目が届かないところでは、協調性も責任感も当事者意識もないただの迷惑な存在になっていたと思う。

簡単に解ける問題や、簡単に読める本は、それに割く時間が無駄だと思っているのかもしれない。だからやる気が起きないのかも。反対に、難しい本を解読できたら、その後いろんな場面(会話や、課題のレポートや、授業での発言など)でその成果を垣間見せることができて、周りから「できるやつ」として認めてもらえたり、尊敬してもらえるから、難しい本を読みたくなるのだと思う。

頭が良いほど、私のことを尊重したり尊敬したりしてくれそうな人がいると、つい、頭良い人仕草をしてしまう。私の賢さや真面目さなんてどうでもいいと切り捨てて私のことを尊重してくれる人がどれだけいるんだろう。

親が、妹のことは毎日叱るのに、私のことは叱ってこなかったのは、私のほうが勉強ができて、部屋が散らかってなくて、真面目に努力してそうに見えたからだと思う。私たちに対する両親の評価軸は大体この3つである。だから、私はこの3つをやることで周りから認められようとしてきたし、できてなければ罪悪感を覚える。

一方で、妹は、きっとこの3つの罪悪感とともに過ごしてきたのだろうし、私とは別の軸で周りから尊重してもらっているはずだ。賢さや几帳面さや真面目さではなく、愛嬌や楽器の演奏といったこと。練習を怠けて叱られても、音楽を続けているのは、それを万一やめさせられたら、承認してもらう手段を失うことになるからかもしれない。

私が高校生で音楽教室に通うのをやめたとき、もう楽器を習っている自分は認められ尽くした感覚があった。先生に習いに行って、わざわざ褒められにいかなくても、これからは自分で好きなときに弾ければいいや、と。

私は大学に4年間通った後、また2年通うことを選んだ。もう大学の先生に褒めてもらわなくていいや、と思える日はいつ来るんだろうか。学生の身分をやめてしまったら、承認欲求を満たす手段を1つ失ってしまう。社会に出て認められる、あるいは何も認められないって、どんな感じなんだろうか。全然想像できない。