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ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』序文〜1-1

読書会で、ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』竹村和子訳(青土社、1999年)を読むことになった。指定のページを一通り読んでも、読書会当日になったら読んだ内容を忘れそうなので、1章1節ごとにメモしていこうと思う。あと、読書会のたびに本を買いまくっているので、図書館で手に入る本はできるだけ買わずに出費を抑えたい。借りた本は2~3週間で返却しないといけないので、期限までにできるだけ読み進めておくためにも、要点と疑問をメモしておこうと思う。

序文 p.7

反抗したら叱られるといったような、トラブルを起こすとトラブルの状態に陥る構図、トラブルを起こすとトラブルに巻き込まれるぞと脅しを受ける現状で、いかにうまくトラブルを起こせるか。

根源的なものと思われている「男」・「女」といったカテゴリーは、社会的な「ジェンダー」も、生物学的な「セックス」ですらも、構築されたものにすぎない。そのことが明らかになれば、二元的なカテゴリーにどんな変化が起きるのか。フェミニズムが、カテゴリーによる制限から解放されたら、どんな新しい政治形態が可能になるか。

その事実を明らかにするために、フーコーの「系譜学」という批評方法を用いる。アイデンティティのカテゴリーを、唯一の起源とか原因と名付けることによる、政治上の利害を探っていく。男根ロゴス中心主義や強制的異性愛といった制度を分析し、脱中心化する。

第1章<セックス/ジェンダー/欲望>の主体

フェミニズムの主体としての「女」の位置や、セックス/ジェンダーの区別について再考する。

強制的異性愛と男根ロゴス中心主義を権力/言説の体制と理解して、ジェンダーにまつわる言説の中心問題をさまざまに解き明かしていく。

・言語はどのようにセックスのカテゴリーを構築しているのか

・「女性性」は、言語による表象に抵抗するものなのか

・言語を、男根ロゴス中心主義とみなすのか

・女であることと性的なことを融合させる言語の内部で表象される唯一のセックスが、「女性性」なのか

・強制的異性愛と男根ロゴス中心主義はどこで、どのように、ひとつに収斂していくのか

・両者の関係に破綻がおこる箇所はどこなのか

・さまざまな権力体制を支える「セックス」という架空の構築物を、言語はどのように生産していくのか

異性愛を措定する言語のなかでは、どのような連続性がセックスとジェンダーと欲望のあいだに存在すると考えられているのか。こういった項目は区別されているのか

・どんな種類の文化の実践が、セックスとジェンダーと欲望のあいだに不連続や不協和を作りだし、その三者間にあるとされている連関性に疑問を投げかけることができるのか

一 フェミニズムの主体としての女 p.19

女の表象は、すべての女を含めていない

女の生き方が誤って表象されたり、まったく表象されてこなかった状況に対して、フェミニズムは、女というカテゴリーを通して理解されるアイデンティティがあるという前提で、女を政治的主体として可視化することを試みてきた。

しかし、政治的、言語的な「表象」が先に存在することで、認知可能なものだけが主体として表象され、基準を満たさなければ主体として表象されることから外れてしまうということになる。

何が女というカテゴリーを構築しているのか、構築すべきなのか、明らかにされていない。

法の正当性のために、非歴史的で架空の基盤や主体をパフォーマティブに作りだす

法は「法のまえに存在する主体」という概念を生み出し、そののちそれを隠蔽する。その目的は、言説による形成物であるものの基盤に、きわめて自然な前提があるとすることで、法の規制的な支配を正当化するためである。法のまえに存在する主体が存在するとすれば、ひとはみずからの自由意志で支配されることに同意したことになり、それが社会契約の正当性を作りあげることになる。

したがって女が言語や政治においてどうすればもっと十全に表象されるかを探求するだけでは、じゅうぶんではない。

フェミニズムの主体である「女」というカテゴリーが、解放を模索するまさにその権力構造によってどのように生産され、また制約されているかを理解しなければならない。

「男の支配」に抑圧される「女たち」を普遍化することは、他の文脈を排除し、普遍性自体が空洞化し、フェミニズムは威圧的になる

「女たち」という語は、それが記述し代表しているつもりの人々の合意を得ることができる安定したシニフィアンなどではない。女であるとしても、それはそのひとの一側面であり、そのひとのすべてではない。ジェンダーは、人種、階級、民族、性、地域にまつわる言説によって構築されている様態と、複雑に絡み合っており、異なった歴史的文脈を貫いてジェンダーがつねに一貫して矛盾なく構築されているわけではないため、「ジェンダー」だけを分離することは不可能である。

家父長制のなかに、女の抑圧の単一な形態があるという西洋的な概念は、非西洋でなされるジェンダーの抑圧を本質主義的で、野蛮の徴候として説明してしまうものでもある。すべての女を表象/代表しうると主張するフェミニズムが、家父長制に普遍的な地位を与えなければと思い、まさに架空の普遍性に向かって、フェミニズム自身が突き進んでしまうことになる。

男性的/女性的という二分法は、各項の固有性を認識するために排他的な枠組みを作りだすだけでなく、女性的という「固有性」が脱文脈化される。