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小さい民主主義の練習としてのアートプロジェクト、参考としてのフェミニズム

漢方が効き始めている最近、ここ数年で一番元気なんじゃないかと思う。いつもなぜか微妙にだるい身体をソファに横たわらせて、SNSYouTubeを見て1日を過ごすよりも、本を読んだほうがよっぽど面白いのではないかということに、ようやく気づいた。アルゴリズムに従って提供されるコンテンツを捌いていると、どんどん似通って煮詰まって、窮屈になってくる。しかし、この世には、もっと自分の人生に重要なことを、既に自分の代わりに記してくれている人がいて、それは思いもよらぬ方向へ導いてくれたりして、似通いが凝縮されるどころか、1つの問題をより深いところで広い穴を掘っていくことになる。その穴は、別の穴と繋がっていたりする。

他の女の子たちと同じように低用量ピルを飲み始めたのに、身体に合わず疎外感を経験した著者が、白人男性中心で発展してきた医療について言及した本。非男性の身体を持つ人々の健康を尊重するために、科学としての医療がすべき研究や診療、予防、教育などについて提示する。(という内容を1/3くらい読んでいる途中)

www.kinokuniya.co.jp

昨年から、フェミニズムに関する本を読む機会が増えた。特にフェミニズムを直接研究対象としているわけではないけれど、なんとなく関心があった。もともとは、学部1年で受けた現代美術史の授業で、ディズニーアニメの『シンデレラ』を、今のフェミニズム的な視点から観てみるという回がきっかけだった。メディアによって、子どもの頃から「理想的な女性像」を刷り込まれているということが衝撃的で、とても興味を惹かれた。

そして、最近になってちゃんと読み始めたのが、アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』だ。フェミニズムを勉強しようというよりは、話題となっていたこの本のタイトルを見て、即買った。自分に「セックス」する「権利」があるのだとしたら、それは一体どういうことなのだろうという期待があった。

www.keisoshobo.co.jp

フェミニズムをかじり始めて、勉強になっているなと思うのは、権威や搾取といった社会構造を自覚できるようになったことである。「大人の事情」みたいな感じで覆い隠されていることが、なんとなくこうなっているんじゃなかという気配を感じ取れるようになってきた。理不尽な状況に置かれたとき、それがなぜ理不尽で、自分が主張すべき権利がどこにあるのか、整理されて見極めがつくようになってきた。

そして、自分の権利を守ることだけでなく、自分が他人の権利を尊重するための勉強にもなっていると思う。私が自分で小さい規模のアートプロジェクトを企画したいと思ってきたのは、自分が理不尽な状況にストレスを溜めないで済む、かつ、他人を搾取しない民主主義国家を、自分の手が届く範囲に作りたいからではないか、ということに気づいた。

これで、私が読むべき本の方向性が1つ定まった。広義での「政治」について、政治の作り方について、勉強しよう。