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なんとなく分かっているふりで進める

本が1冊あったとして、内容を完全に理解することは難しいけれど、とりあえずなんとなく分かったということにしておく、という学び方をすることがある。本に限らず、教授や先輩や友人や賢い後輩が話すときの、独特の語彙や言い回しなども、とりあえず、なんとなく分かっていることにして会話を先に進めることがある。

自分が人に話したり書いたりするときも、たまにこれをやってしまう。覚えたての言葉をとりあえず使ってみるのと似ているかも。自分でも完全に説明できるわけではないのだけど、それっぽい言葉で言い表しておけば、物分かりのいい先生なら察してくれるかな、みたいな。とりあえず自分が言葉を投げておけば、代わりにわかりやすく言い換えたりしてくれる人が現れるだろう、と期待している。

ただ、自分より立場が上の人にこれをされると、私はめちゃめちゃ怒る。抽象的で意味不明な課題を出されたときとか、先生の自己満足で専門用語ばかりで完結する授業とか。先生と学生では、解釈するために持ち合わせているヴォキャブラリーに差があるのだから、そこは配慮しろよ、と思う。

私の言葉を解釈するためのヴォキャブラリーが、少ないかもしれない人(初対面の人、子ども、日本語に慣れていない人)に対しては、私はできる限り具体的で簡潔な言葉で、誤解のない文法で伝えられるよう注意を払う。相手が私の言葉を解釈する労力を最小限にすることで、対等な関係が築ける気がするから。言葉を簡潔にする作業は、結構頭をフル回転させる。けれども、「わからない」という相手のストレスに比べたら、全然マシだろう。

常に具体的で簡潔な言葉遣いや、正確で詳細な情報伝達が望ましいかというと、そういうときばかりでもない。多少は曖昧な言葉を使ったほうが、誤解や多様な解釈が良い発展を生むことがあるし、解釈するという作業が相手のためになったりする場面もある。わかりやすい言葉遣いと、疑問や解釈の余地を残す言葉遣いと、そもそも部外者を立ち入らせない言葉遣いと、その時々で適切なほうを選べたら良いのだけど。