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注意力のなさと、退屈しのぎスキルの葛藤

だれでもできる仕事は、注意力がいる

この年末年始、短期で個別指導塾と神社の売り子のアルバイトをやった。自分は「だれでもできる簡単な仕事」があまり向いてないのでは、と思った。

シフトのスケジュールを確認せずにすっぽかしたり、全然違う値段を言ったり、なんだか不注意が多い。最初は細心の注意を払っているので失敗は少ないが、少し慣れが出てくると、惰性で行動してしまう。

結婚式バイトで、簡単なマニュアルに従って照明とマイクの操作をする仕事の時、最初はめちゃめちゃ上手くいったのに、何回目かの現場でCDを落として割ってしまったり、リハで照明のスイッチを押し忘れたりしていた。空き家調査のバイトでも、違う住所を入力するミスばかりしていて、上司は怒っていた。寝坊して遅刻する、みたいなミスなら予測できるから対策が取れるし、対策が取れたはずのところでミスをすれば、次から気をつけよう、で気持ちは切り替えられる。しかし、思わぬところで突然ミスをしてしまったとき、かなりショックである。自分がそんな単純なミスをしてしまうなんて、信じられない。

だれでもできる仕事は、専門性はいらない代わりに、注意力が必要な仕事なのだと思う。落ち着いて注意力を研ぎ澄ますためには、頭の中がすっきりしている必要がある。私みたいに常に頭の中で考え事をしている人間は、すぐに目の前から注意が逸れて思考に耽ってしまって、その瞬間、肝心の業務はテキトーになる。

退屈な練習によって身につけた不注意力

私は小学生の頃からオルガンを習っていて、毎日コツコツ練習を積み重ねることを頑張っていた。長時間、楽器の練習ができる人というのは、「集中力がある」と言われがちだ。しかし自分は、大人になるにつれて、集中力が上がっていった一面もあるだろうけれど、それとは反対に、集中しない術も一緒に身につけてしまったのではないか。

そもそも練習時間は結果でしかない。自分で音楽的に工夫すべきことがわかっていれば、必然的に練習する必要が出てくるし、それに応じて必要な練習時間も決まってくる、というだけだ。8時間必要なこともあれば、15分で十分なときもあるだろう。しかし、右も左もわからないうちは、先生に言われた通りに練習するしかない。小学生の私にとっては、30分も練習するのは難しいことだった。30分の間に、何を練習するのかわからなかったからだ。

それから高校生くらいまで、練習時間は長ければ長いほうが親や先生に褒められたので、とにかく2時間、3時間練習し続けることを目標にしていた。全国大会に行った〇〇ちゃんは、プロの演奏家の〇〇さんは、1日○時間練習しているんだって、と。私の周りにいた昭和生まれの大人たちは、練習時間=努力の証、と理解していたようだ。

同じ曲を繰り返し弾く作業を何時間も続けるために、私は、メトロノームをすごく遅いテンポからすごく速いテンポまで変えながら弾いたり、ノーミスで弾けるまで何回も通して弾いたりすることくらいしか思いつかなかった。それでも退屈な作業であることには変わらない。身体が勝手に楽譜を覚えて指や足が自動的に動くようになったら、何か考え事をしていたのだと思う。自分の頭の中で考え事をすることが、退屈をしのぐのには最適である(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の結論もこんな主旨だったと思う)。もう少し音楽的な関心があれば、ここの部分はどう表現しよう、こう表現するためにはどんな弾き方が良いだろう、と目の前の音楽を深める考え事をしただろうが、テンポを上げてノーミスで弾けるようになることと、長時間の練習に耐えることを目的としていたので、音楽とは全然関係ないことを考えて時間を稼いでいた。(実家では、練習時間を記録する棒グラフを鉛筆で塗って、月末に100円/1hのお小遣いをもらえるシステムがあり、お金も稼いでいた)

私は編み物をするのが全然苦じゃない。楽しいとか好きとかいう感情よりも、決まったパターンで手を動かしながら、ぼーっと考え事をしている時間が心地よいだけである。これに慣れていない人、つまり編み物以外の考え事をしない人にとっては、編み物は退屈で、いつまでたっても完成しない苦行かもしれない。私はむしろ、まだ完成しないでほしいと思いながら編んでいる。

自転車通学は不注意力の発揮どころ

家から大学まで、30分~1時間くらい自転車を漕ぐ。いつも通い慣れた道で、カーブするポイントや、一時停止し左右を確認するべきポイント、信号を見るポイントは、身体が覚えてしまっている。オルガンの練習と一緒で、身体は自動的に動いてくれるので、考え事をしているうちに、目的地に着く。いつも見慣れた道でも、考え事をしているおかげで退屈しないのである。でも、考え事をしながら運転するなんて、一番危険なやつである。一度だけ、赤信号に気づかず突き進んで、周りの車や歩行者と「え?」みたいな空気になったことはあったが、今のところ事故は起こしたことはない。ただただ運がいい。まだ自動車の免許は持っていないが、自分は自動車を運転して大丈夫な人間なのか、不安だ。ようやく運転に慣れた頃に、慣れた道で、考え事をしていたらうっかり人を轢いてしまう予感しかしない。

注意すべきときに注意を発揮し、上手く退屈をしのぐには

バイトなどで、たくさんのことに注意を向けなければいけないとき、どうすれば考え事に耽ることを避けられるのか。人間は他の動物よりも、複数の環世界を行き来する能力が高いために、一つのことに集中し続けることが難しく、すぐに退屈してしまうらしい(これも、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に書いてた)。注意力の欠陥は、治したり、鍛えたりすることよりも、もともと備わっているものとして捉えた方がいいのかもしれない。解決策はそれから考え始めることにしよう。

退屈をしのぐために考え事をする上で、関心・集中型の考え事と、無関心・不注意型の考え事があると思う。楽器を練習しながら、自分の演奏や目の前の曲に対して疑問を見つけ、それについて考えることは、「関心・集中型の考え事」である。通り慣れた道を自転車を漕ぎながら、「なぜ自分はバイトで不注意が多いのだろう、ああ自転車に乗っているときに考え事をしていることが関係しているな、それから......」というのは「無関心・不注意型の考え事」である。今漕いでいる道や景色に関心を向けていないから、頭の中の考え事に耽ってしまう。自転車を運転しているときは、空の色とか、風の冷たさとか、前を走る車の種類とか、次から次へと関心を移していって、自分の思考の内側に籠らない工夫が必要だろう。