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自分が「他者」になってしまい、聴き方がわかりません(東京都・20歳)

音楽をやっていると、音楽というのも広いですが、教育学部出身の先生と音大出身の先生のもとでやってた吹奏楽部の音楽と、音大出身の先生のもとでやってた、オーケストラを再現するオルガンの音楽と、なんかこの書き方だと、先生ディスってるみたいになるな。とにかく、目の前のことで頭がいっぱいで、まあ目の前のことを盲信できたおかげで、あんなにも熱中できたのはそうで、自分が生きている世界を俯瞰することがあまりにもなかったなと思います。ミスのないクオリティの高い演奏こそが正しい音楽で、そうでない音楽は間違いなんだと信じていたし、コンクールでは他人のミスを願って粗探しをしたし、演奏すれば大人たちに気に入られそうな曲というのを常に探していたから、自分の表現力の豊かさよりも曲のチカラを信じていたしそれを利用することばかり考えていました。上手い人が演奏すれば、どんな曲であろうと上手い、ってなるはずなのに、なぜかそれに全然気づいてなくて、「音の集合としてかっこいい曲」というのを探しても探しても見つからない訳です。演奏すること自体をもっと純粋に楽しめばよかったのに、私が居た音楽はサービス精神ありきのものだったのか、「聴かれる」ことを過剰に気にしていて、良い評価を得るにはどうすればいいのか、というある種の合理性の中で生きていました。「合理性」の使い方あってるのか?良い評価を得るための道なんて探して、なんかビジネスみたいだと思ったということが言いたかっただけです。そんな「他者からみて良い音楽か・悪い音楽か」ということばかり気にしていたので、自分がその「他者」になった今、つまり音楽を聴くための基準だった「他者」が居なくなったので、音楽の聴き方がわかりません。どうすればいいのでしょうか。これ、大文字の他者ですねたぶん。「自分を評価してくる架空の他者」が自分の中に居たんだな。とにかく、「自分が演奏して評価を得られる曲かどうか」という合理性のための聴き方は必要ないので、もっと純粋に「聴くために聴く」ということを楽しみたいのです。

ちょっとわかんないので保留です。最近の悩み。

追記

完全に「感情」が抜け落ちていますね、ちょっとわかった。理屈だけじゃ楽しめないよねそりゃ。