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引っ越した帰り道

大学院に進学して、住むところを引っ越した。人生で2度目の引っ越しである。最初の引っ越しは、実家から上京して寮に入ったから、自分の本当の家は地元にあって、寮は大学生の間だけの仮住まい、という感覚だった。帰省すれば実家はあるから、実家を離れることに寂しさはなかった。そして、寮も大学を卒業すれば必ず出なければならないことは最初から決まっていたので、そういうもんだと思って特に自分の部屋に愛着も持たなかった。そして、学生が大量に収監されている牢屋みたいな1Kの寮から、この春1LDKのアパートに移った。広いって快適。4年間過ごした寮の一室には何の未練もない。
しかし、ふと寂しさが込み上げてくるときがある。夜、自転車での帰り道である。私は無意識にも、帰り道に愛着を抱いてしまっていたのである。寮まで帰るには、大通りの途中で脇道に逸れて、団地と団地の間の道をくねくね曲がりながら進んでいく。住宅とコンビニしかない車通りの少ないまっすぐな道をひたすら漕いだりとか、家と家が斜めに立ち並ぶ裏道でショートカットしたり、高架の下をよくわからない狭さのポールをよけながらくぐったりとか、小道が多い。
一方で新居は、大通りから左折して右折して左折したら、あっという間に着いてしまう。大通りは同じなのだけど、寮へ行くいつもの曲がり角を通り過ぎるとき、「あぁ、もうあの薄暗い小道をくねくね帰ることもないのか」と寂しくなる。寮に帰る場所がないのと同じように、もうその脇道に私が帰る道はない。さみしい。

帰る道がそこにないように、寮から徒歩3分の恋人の家までただ直進するだけのあの夜道のわくわくどきどきも、もうない。実家から届いたみかんを紙袋に入れておすそ分けしにいったり、タッパーに入れたぶり大根を風呂敷で包んで、煮汁がこぼれないように抱きかかえながらも早足になってしまうあれとか、もうない。いや、それが面倒臭かったし、いつも私が行かなければならず(寮は異性入室禁止)負担が偏っているので、一緒に住んでくれと頼んだのだけど。広くて快適、近くて便利、一緒に住んで手間なし、なのだけど、ちょっとした不便さやノイズが恋しかったりする。そして、同居人は私と違って、根を張るつもりだった1K部屋から引っ越すことになったのだから、大事な部屋を手放さなければならなくなった彼の気持ちを想像すると、胸が締め付けられる思いになる。そこは後悔している。

1年前くらいまでは、過去に執着しない!今を楽しめ!と思って、思い出に耽ったりすることなんてあまりなかったのだけど、ここ最近、私は大人になってしまいそうになっているのか、エモーショナルになりがちである。
近年、レトロブーム?なのか、みんなやたら昭和の景色や平成のカルチャーをSNSで懐かしんでいる。私も懐かしさに浸りたいし、物心つく前、生まれるずっと前から今に至るまで未だに残っている良質な音楽を聴きたいし、中森明菜とかキムタクとかを観たい。
なぜか?たぶん未来に対する漠然とした期待よりも、美化された過去の美しさの方が、割合が大きくなってきたからではないか。人生が進むにつれて、あらゆる選択肢は消去されて、これから進むべきレールも絞られてくる。大きくなったら何になろうかな、とあれこれ妄想する時間より、過去のキラキラした思い出に浸っている時間の方がよっぽどわくわくする。だから、帰り道のことを思い出して、切なくなったりするのだと思う。世間で昭和平成レトロが流行っているのも、日本の未来を漠然と妄想するより、あの頃を思い出している方が幸せだからかもしれない。

いやいや、そんなこと言ってないで、これからのことを考えよう。これからどう楽しく生きるか。勝手に楽しい妄想をすることは減ったけれど、頑張ってでも考えたほうがいい。新・帰り道に愛着を持つためのノイズを探そう。こういうのは過去から学ぶべきである。これから卒業後、就ける仕事があるか不安だと相談したら、恩師は「何も決まってないってことは、期待しかないじゃない〜!」と言ってくれた。期待しかない。