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ファスト教養にとどまるか

もし、自分が大学に入っていなかったら、東京に来ていなかったら、ひろゆきとか中田敦彦とかの喋っている内容に共感し、アルゴリズム的に薦められた動画ばかり摂取し、ジュンク堂の入り口に積まれているファスト教養的な新書を買っては「本はよく読む方です〜」と自己紹介をし、他人の話に耳を傾けず一方的に上から目線のツイートみたいな綺麗事を並べていたかもしれない。

これは、そういう人たちを軽蔑したいという意味ではなく、自分がそうなる可能性を自覚していて、今でもそうならないようにギリギリ踏ん張っている実感があるからこその想像である。

地方の県立高校生だった私は、運良く大学に入ったおかげで、専門家の説明とともに提示された本や映画や展覧会を選ぶことができているし、運良く都心の大学にいるおかげで、多様な出自の友人や、他の複数の大学の人とも知り合いになれて、地元にいたらたどり着かなかったような情報にアクセスするきっかけを得られている。と思っている。もし、冒頭の説明のような人間になっていたら、相手の抱える状況や背景に想像や配慮が及ばなかったり、悪気なく他人を加害したり、自分が置かれている社会構造を認識できなかったり、マイノリティが不利な立場に置かれている構造に加担してしまったりする可能性がある。人間味を欠いた人間になっていただろうなと思う(というか現在進行形で常にそうであって、それよりはいくらかマシな方である、というのにすぎない)。だからといって、地方の県立高校生だった私がマシな人間でいるためには、東京の大学に入ればいい、という選択肢しかないのは良くない。都心に住まなくても、専門教育機関に入らなくても、高校生だった私がメンタリストDaiGoのコミュ障改善本に傾倒しなくて済むような、そういったものを言葉を持って批判的に捉えることができるような大人になるためのルートが用意されているべきだと思う。どうすればいいんだろうか?(というのを、GYRE GALLERYのカプーア展をめぐる、自称・美術解説アカウントと美術現場界隈たちの水掛け論を見ていて思った。)