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私と服の関係2

私の服(祖母のおさがり)をよく褒めてくれる子が、お母さんやおばあちゃんのおさがりを積極的に着るようになって、他の人に褒められた時に「これ、おさがりなんです!」と言っていたら、おさがりを着ることがステータスみたいになってしまって、おさがりを着られない人との分断が生まれてしまうのでは、やばい、自分はよくない振る舞いをしてきたんじゃないのか......

前回、生まれつき顔が整っている人は、上手いこと謙虚に生きる術を持ってるんじゃないか、みたいなことを書いたけれど、個々人が個々人を見下すとか謙遜するとかいう問題じゃない。生まれつきの容姿にコンプレックスを持っていたり、容姿について褒められたいがために、美容にお金をかける人たちがいるけれども、市場はそこに需要を見出して、メイクやジムや脱毛や整形への購買意欲を過剰に刺激してくる。「おさがり」にステータスがついてしまうと、おさがり服をくれる人へ身を削って奉仕する「パパ活」ならぬ「おさ活」が流行ったりするかもしれない(もっと的確な例がある気がする...)。そして、身内からおさがりをもらうこともなければ、おさがり風ファッションを消費する余裕もない人たちの一部は、劣等感に苛まれながら生きるはめになるかもしれない......

と無用な心配をしてみた。ハイブランドのおさがりや古着なんて、日頃からハイブランドで最新の物を買っている人たちからすれば、いつまでも古いものを使い回すなんて貧乏くさいだけだろう。ネガティヴなイメージを持った「古着」が、近年になって流行や一つのジャンルとして市民権を得ているのはいいことだと思う。しかし、コーディネートのセンスに恵まれない人からすれば、古着を選び着こなしている人は、おしゃれマウントを取っているように見えるかもしれない。「古着=おしゃれ」がステータス化したように、「おさがり」がステータスにならないように注意しなければ。

いいな、と思う服を着ている人がいたら、私はつい、どこで買ったの?と聞きたくなってしまう。私がおしゃれだと思うお店で服を手に入れて、私も他の人からおしゃれだと思われたいからだ。だから、他の人から服を褒められると、どこで手に入れたのか聞かれる前に、よかれと思って、おばあちゃんのおさがりなんです、と言ってしまう。これがよくないかも。おばあちゃんのおさがりは、おばあちゃんからしか手に入らない。そもそも、相手が同じような服を欲しいと思って「どこに売ってるの?」と聞いてきたのならともかく、相手が単に褒めてくれただけなら、自分から言う必要はない。

そういえば、私は小学生の時、母の手作りの物をよく身につけていた。体操服などを入れる袋やバッグ類はもちろん、ワンピースやジャケットやヘアゴムなども母の手作りの物がいくつかあった。他の家の子たちが持っているキャラクターの絵柄の布ではなく、もっと大人っぽくておしゃれだと思っていたし、お店に売っているような服を手作りしていることはすごいことだと自慢げに思っていた。それは、母へのリスペクトではなく、虎の威を借る狐、的な意味においてである。だから、手作りのすごさに感動してくれそうな友達や先生に、母の手作りであることをアピールすることで、私は承認欲求を満たしていた。

おさがりにしろ、手作りにしろ、他人が手に入れたくても手に入らないものを持っている、ということを私はステータスにしてきた。お金とか美容とかと違って、努力ではどうにもならない。ハイブランドの服を大量に持っている祖母や、子どもの服を手作りする母親のもとに生まれてくることを選んだり、変えたりすることはできない。

人は他人が欲するものを欲する、というけれど、他人が欲するものを持っている自分、を見せびらかしたくなるものでもあり、そういう自分もまた、他人が欲することをわかって自分もそれを欲しているのである。他人が欲するものを欲したところで、それは本当の欲望ではない。自分の身につけているものが、他の人も欲しているものであることに快感を覚えるのをやめればいいのかも。