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プラレールからの眺め、散らかった部屋は悪か?

最近、うちにプラレールが走っていたら、相当景色変わるよな、という想像をしている。毒々しい青のプラスチックの板が、どこまでも拡張されていく。床スレスレを走る模型の電車の目線から部屋の中を眺めてみたら、普段とは違った発見があるのではないか。

実家では、常に母親が「自分の部屋片付けなさい」「このゴミ誰の?自分で捨てて」と言っていた。だから、私も、部屋を散らかすことは罪であり、リビングなどの共有スペースに食べ終わったアイスのカップを放置すべきでない、ゴミを出した人に捨てさせるべきだ、と思ってきた。いつも、同居人が放置した綿棒が想定外な場所(クローゼット、シャワーヘッドのホルダーの上、パジャマのポケット、洗濯機の中、etc)から発見されるので、心の中で(ゴミ箱に捨てろよ〜)と思う。が、心の底からそうは思ってない気がする。母親のスタンスをなぞっているだけで、冷静に考えたら別に大したことではない。怒りとかはない。

リビングに放置されたポテチの袋や弁当の空容器を気にする人は、本人に捨てさせたいと思う。散らかった部屋を「ゴミ屋敷だ」と揶揄う。しかし、そこにゴミを放置している人や散らかった部屋で生活している人は、別に気にしていない。ゴミが放置されていると被る迷惑が明確にあるのであれば、伝えるべきだし、部屋が汚いとデメリットがあるよ、ということを説明するのも大事である。しかし、単純に「部屋を散らかす=ダメ人間」みたいに責めるのはやりすぎている。散らかした本人は、自分で散らかしたスペースで何も気にせず過ごせているのだから。

同じ空間で他人と過ごす上で、相手の視点を知る、という経験が必要なのではないかと思う。自分が気になるから、「ゴミをここに置くな」「散らかった部屋を片付けろ」と言うのは、一方的に押し付けているだけである。

散らかった部屋は悪なのか?プラレールの目線で、散らかった部屋を眺めてみると、案外いい景色だったりするかもしれない。