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『セックスする権利』「セックスする権利」を読んで —政治的に固定化された欲望

pp.101~128「セックスする権利」の章を読み終わった。ここでは、欲望の政治的側面と、セックスする権利について論じられた。

"弱者男性" 、"非モテ” という言葉があるが、そういった男性たち(ここでは「インセル」と呼ばれる)が、「自分たちは女性とセックスする権利を奪われている」と主張することについて、どう捉えるか。セックスや性に対する欲望やイデオロギーは、どのように形成されるのか。

性的な欲望の対象から外される人たち

ファッカビリティ(fuckability)という言葉は、セックスする相手にステータスを与えるがゆえ魅力的と思われることを指す。「魅力的なブロンドのヤリマン」と東アジア人女性は、ファッカビリティが高い。一方で、黒人女性やアジア人男性は相対的に低い。黒人男性に対しては、セクシュアリティへの崇拝(ペニスが大きいといった固定観念)と恐怖が存在する。障害者、トランス、肥満の身体に対しては、性的な嫌悪感が向けられる。だれの身体がセックスする相手にステータスを与えるのかは、「個人の好み」を越えて政治的な事実である。

例えば、マッチングアプリは、ユーザーに対し、性的な「NGポイント」と「必要条件」によって人を判断し、アイデンティティの露骨な特徴によって性的な対象になる見込みがある人とない人のふたつに世界を分けるよう促す。それによって、わたしたちの性的欲望がすでに従っている差別のパターンは強化される。

包摂することと、セックスしない権利のジレンマ

多様性を確保する包摂的な性教育やメディアのあり方が歓迎されているものの、それだけで人々の好みや性的欲望に変化が起こったり、差別が解消されたりするわけではない。かといって、市民の好みや行動に国家が介入し、セックスを「分かちあう」よう促したとすれば、それは権威主義的だということになる。(フェミニズムは家父長制のような権威を批判してきたのに、フェミニズム自体が権威になってしまっては本末転倒ということになってしまう)

そして、性に関して不当に周縁化され排除されている人々は、彼らとセックスを拒む者のせいでセックスする権利が奪われているわけではない。ほかのだれかとセックスしなければならない義務など、だれにもないのである。

とはいえ政治的な根源からなる欲望

とはいえ、トランス女性や障害者女性、アジア系男性に「あなたとセックスする義務はだれにもありませんよ」と言えるだろうか?セックスする権利は存在せず、だれもが自分の求めるものを求める権利をもつが、ペニスつきはNG、デブはNG、黒人はNGといった個人の好みが単純に個人的であることはありえない。

異なる見方を促し、欲望に変化を起こす

ほかの人を欲望の対象とする義務はだれにもなく、欲望の対象にされる権利もだれにもない。一方で、だれが欲望の対象となり、だれがならないのかは政治的な問題である。女性の黒人、肥満者、障害者による「黒は美しい」「大きいことは美しい」といったラディカル・セルフ・ラブ運動は、ある身体を異なる角度から見て、嫌悪感から称賛へとゲシュタルト転換(同じものを見ていても異なるもののように見えるようになること)を呼び起こす方法である。

性についての好みが固定されていると考えるのは、政治的なことだと認めなければならない。実際には、性についての好みは変えられるし、変わるものである。欲望によって思ってもみない方向に突き動かされることや、思ってもみなかった人に惹きつけられることもある。欲望は政治によって選ばれたものに逆らい、欲望そのもののために選ぶことができるということが、最大の希望の支えとなるだろう。